体験談と関連書籍など

体験談

掲載している体験はあくまでも一例です。

精神疾患のある当事者のかたの症状や思考、行動はさまざまで、子どもの体験もそれぞれ違います。

ただ、苦しい想いで生きてきた事は共通しています。

"唯さん" (40代 女性)の体験談をご紹介します。(長文です)

私の母は、私が物心ついたころには、いつも眉間にしわを寄せ、とても不機嫌で、たばこをふかし、「うるさい」「黙れ」「お前はでてくるな」と何かに向かって話していました。とても苦しそうでした。母は私に言っているのかと思い、怖くて母には近づけず、母に存在を悟られないように常におとなしくしていました。

そんな私が、子どもの母親になり、周りの母親を見よう見まねで母親していたら、子供達が成長するにつれ、様々なところで、「目立たないようにしていた私」がぽつんと寂しそうに出てくるようになりました。

こんなに気を遣って、我慢している同年代の子(私)がいるのに、どうして、私の子供達はそんなに無邪気にしていられるのか腹立たしくなりました。

子供の成長を喜び、楽しそうに子育てしているママ友を見るたび、私には何か欠けているものがあるのかもしれない。
子供達に何かしてあげるたび、私がその葛藤に苦しめられました。

あの統合失調症の母親がいる、機能不全の家庭に産まれたから、遺伝的に、私は「子育てが楽しい」と思えない素因があるのかもしれない、何か成長の上で、獲得していないものがあるのかもしれない。

同じような経験をしている人はどうなのか、これからも私は「母親」をし続けられるのか、心配で「こどもぴあ」の学習会に参加しました。
学習会に参加して、その後、カフェで話すのがとても楽しかったです。

同じような境遇の人と一緒にいられるのは、お互い傷つけあうこともなく安心で、一見普通の皆さんを見ていたら、私にもできるのかもしれないと思いました。

母と父の喧嘩は絶えず、寝静まった町営住宅中に響き渡り、ご近所から苦情がはいり、警察を何度も呼ばれました。

玄関を出ると、ご近所さんからは、「〇〇ちゃん(私)は大変ね。」と声をかけられ、どこに行っても「ごめんなさい。母がご迷惑をかけて」と謝ってばかりでした。

小学校に行くときは、母が薬を飲みすぎて倒れないでいてほしい、大量の醬油を飲まないでいてほしい、親戚や仲の良かった友人に変な電話をかけて、関係性が難しくなり、これ以上、母が苦しまないでいてほしいと心配ばかりで、登校班の友達の話もあまり身が入りませんでした。私にできることは、母を安心させるため、学校に行くこと。学校でいい子でいて、母を心配させないようにすること。いじめられても、校舎の影で泣いて、誰にも相談しませんでした。恥ずかしかったですが、給食を多めに食べて、空腹を紛らわせ、お母さんが食事の心配をしなくてもいいようにしていました。

病気になっても、病院に連れて行ってもらえませんでした。水を飲んでいたら、気のせいだから、いつか治るから我慢しなさいと言われました。

あまりにもお腹が痛くなり、苦しそうにしている私を担任の先生が見つけて、保健の先生がお母さんに電話してくれました。祖父に電話して、車で病院に連れて行ってもらったら、便秘ということが度々ありました。野菜が高くて買えないので、我が家には野菜があまり出ませんでした。給食の野菜を食べないと、お腹が痛くなるから、恥ずかしくてもおかわりをしました。

「そんなに食べるのに、痩せているよね」と言われても、家では食べれないからと言えませんでした。

弟がお腹が痛い、痛いと悶絶しているのに、母は学校に行けば直る、お腹の薬位だしてくれるからと、弟を無理に学校に行かせ、学校から救急車で病院に運ばれ、盲腸が破裂寸前で、命を落とす寸前ということもありました。

この両親はあてにならない、命の危険があると弟と小学5年生で話し合いました。

学校から帰ってくると、母が包丁を持って、「死にたい」というのを必死でなだめました。お父さんの会社に、「あの人(父)は、外で浮気をしている」、「外と家では、人格が違う」、「娘(私)と父があってはならない関係だ」とあることないこと電話するので、お父さんが困るからと必死で止めました。「お父さんが働けなくなったら、どうするの」というとやっとやめてくれました。

母はとても誰かと話したがっていました。自分の気持ちをストレートに言いたいのだけど、知人にそれを話してしまうと「娘」、「母親」、「妻」という役割にそぐわなくなると気づき、電話をガチャンと一方的に切ってしまいます。また、すぐに電話を掛け直し「あの話はなしなし。なかったことにしてね。」とまた、一方的に電話をきってしまうので、どこまでが本意なのかもわからず、疲れてしまいます。

「くそ!くそ!」と普段は言葉の丁寧な母が、やり場のない気持ちを、ごみ袋に入れた皿に込め、割っていると、目の前の公園で遊んでいる親子も逃げ出し、「また始まったのか」と大人がこちらをみて、話し合っているのが申し訳なかったです。

今日は何事もなく、夜ご飯を食べ終えられたなと思ったら、皿が飛んできました。

何か違和感を感じて、目を覚ましたら、母が私に包丁を向け、暗闇に目だけが光っていました。

怖くて、見なかったことにしたくて、必死で、丸くなって、羊を数えました。

息苦しくて、目が覚めると、母が私の首を絞めていました。「やめて」というと、母は我に返り、玄関を飛び出しました。

小学校中学年位からは、夜襲われないように、暑くても、全身を覆い、首とお腹を守りながら、丸くなって寝るようにしていました。

朝起きると、昨夜は何もなかったなと、ほっとしました。

泣くと、瞼が腫れ、別人のようになってしまうのが恥ずかしくて、一人で学校に行くようになりました。

友だちが「どうしたの?」と声をかけてくれても、何も言えず、申し訳ありませんでした。

気にかけてくれたのに、何も言えない私は、友人になる機会をずっと失ってきました。

瞼の腫れがひくまで、授業中以外は、机で寝たふりをしていました。

私は誰にも相談できませんでした。同じ町に住んでいる祖父母も、母の若い頃を知る人はみんな、母はとてもすごかった、優秀だというから、その人の思いを挫くようでしたし、母をこのようにしてしまったのは何なのだろう、私や弟を産んだからなのかなと考えてばかりいました。

母は、月に一度、病院に行って、大量の薬を茶棚に隠し、家族にわからないように隠れて飲んでいました。薬袋には、〇〇病院とあるだけで、母は何の薬を飲んでいるのかわからず、とても心配でした。病院には、家族にわからないようにと、わざと病名や効能がわからないように頼んでいたそうです。

家は貧しく、父は、母がお金のことを相談すると、母が働かず、病院の治療費や通院代、デイサービスにかけるお金ももったいないと治療に反対し、母は薬を飲まなくなり、悪化するを繰り返していました。

生活保護をもらえるような状況でしたが、父と母が反対して、申請はしませんでした。父がいうには、生活保護を貰っても、今より2~3万円しか増えない。車を手放さなければいけなくなる。前のように原付バイクで父が出勤するのは、雪が降って寒いから、それはできないということでした。

叔母に相談すると、車を持っていても、病院に行けない等、必要性を説明すれば、生活保護はもらえるはずだ。生活保護さえあれば、町営住宅の家賃も浮くし、母の医療費も出る、カウンセラーさんと話せたり、作業療法も受けれたら、母が良くなるかもしれない。給食費だって、学用品代だって出るはずだ。その分、私や弟も部活の用品が買えて、部活ができると父を説得しましたが、扶養照会で親兄弟に知られるのが困るということでした。

母が以前、行政の福祉部門で働いていて、福祉を受けている人に対して、事務所内で職員さんが酷いことを言っているのを聞いて、自分も福祉を受けたら、そのように言われるだろうし、役場職員と職場の同僚は何かしらの繋がりがあるようで、ばらされると困ると申請してくれませんでした。福祉部門の人は、数年毎に代わり、福祉に理解がない人がなると、受給者の背景を理解しようとせず、心ないことをしているのを母はとても傷ついていたそうです。

ずっと母の世話をしなければいけないと悲観していたら、叔母が、「○○ちゃん(私)の人生を歩んでいい」と言ってくれて、とても救われました。叔母や叔父は福祉関係で勤めており、知識があり、人間身溢れていて、私の両親とは全く違う。まともな人がいる。両親よりこの人達のことを信じたほうがいいと思ったほどでした。

親に県立高校の受験料も出せないと言われ、中卒で働かなければいけないのかと失望し、叔母に相談すると、日本育英会というのがあり、成績さえよければ、奨学金が借りれるから、県立高校にも行けると言われ、必死で勉強しました。お金がなかったので、部活もできなかったし、洋服もないから、友達とも遊びに行けないし、勉強して、自分でお金を稼げたら、私にも人並みにお友達の家に行くとか、楽しいことができるようになるのもしれない、自分が好きだと思うことが、気兼ねなくできるかもしれないと夢みることができました。

今思うと、母はカサンドラ症候群もあったのかもしれません。父の言動が理解できず、私も弟も苦しめられました。

家計を助けようと、中学生で新聞配達を始めた弟は、生活リズムが崩れ、不登校になりました。
私も新聞配達をしたかったけど、女の子は危ないからだめだと言われ、私には勉強しか自由を得るすべはないなと思いました。
弟が日中も家にいるようになり、母の体調はさらに悪化しました。
弟も二次障害なのだと思います。

元中学の教員だった母は、私や弟の通う中学の卒業生でもあり、教員もしていました。
多忙で、体調を崩し辞めたそうです。
祖父はその中学の学校事務長もしていました。

弟が不登校になってからは、祖母も叔母も協力してくれ、どうにか学校に行かせようと頑張っていましたが、どうしても弟が行かないのを悩んで、さらに母の奇妙な行動が増えました。
弟は母の日中のことが心配だったのだと思います。
俺がいないと、母が何をするかわからない、ここ(町営住宅)にも入れなくなると母を説得していました。

弟の担任の先生が家を訪問してくれたり、中学に通ってきている姉の私に担任の先生が弟のことを相談してくれても、私は、家のことは何も相談できませんでした。
母や祖父母から、精神病なんていったら、私も結婚もできなくなる、誰も相手してくれなくなると、止められていたからです。

ほぼ三年近く、生徒相談の先生が訪問してくれたり、担任でもなくなった先生が私に心配して声かけてくれるので、母に相談しようよといっても、あの先生方は、上から言われていたり、職員会議で話がでているから、来ているの。報告しなきゃいけないだろうから、門前払いしたりすると、お立場が悪くなるだろうから、お通しはするけど、話を聞いても、策はないみたいだし。忙しいのに、迷惑だと思っているだけなのよと、学校事情をよく知る母なりに諦めているようでした。

中学校の先生は授業以外にもやることが多くて、とても不登校の弟を見ることはできない。保健室登校も言われたけど、800人以上いる生徒に養護の先生が一人しかいなくて、怪我や病気の生徒の相手をすることで大変で、一度は弟は行ったけど、すぐ帰ってきてしまった。毎日はいけないだろうし、いたたまれないと思うの。空き教室もないし。空き教室を作ってくれても、その教室に専属の先生がいないと、一人ぼっちでいなくてはいけなくなる。授業の合間に先生たちに来てもらうのも、家に持ち帰って遅くまで丸付けていたり、土日も部活で忙しい先生に、弟一人のために、とても先生方にそんなこと頼めない。頼んだら、また、職員会議が開かれて、また、先生の仕事が増えるの。同僚であった教員を苦しめることにもなると母は悩んでいました。

母が心から笑って、穏やかな話をしているのを見たのは、スクールソーシャルワーカーさんが来た時だけでした。

弟が不登校になった時の担任の先生が、母の下級生で、母は優秀な人で、お祖父さんも素晴らしい事務長さんで、そんな方のお子さんがこんな風になるのは考えられない。

姉の私は、毎日学校に来て、勉強も生活態度もよいのに、弟だけが不登校なのは、私が担任して、弟を何か傷つけたからだといって、出身大学の教授に相談してくれたそうです。

私は、家庭に問題があるのに、誰も言えないから、先生方を苦しめているのがとても苦しかったです。

「私は、学校のソーシャルワーカーなんです。弟さんのように学校に行きにくい生徒さんは、全国的にも多いのですよ。国もその生徒さんのために、スクールソーシャルワーカー事業を始めようとしているのです。お二人を育てるのはとても大変なことですよね。弟さんは、学校を離れてはいますが、とても賢くていらっしゃるようですし、私が少しばかりですけど、お勉強等のお手伝いをしてもよろしいですか。すぐに取り戻せると思いますよ。お母さんのご希望しないことは、他には伝えませんから。私では心もとないと思われるかもかもしれませんが、教授もおりますから、安心してください。」と、心からの労いと具体的な支援策と、展望を示してくれて、母はとても心強かったと思います。

他県出身で母も気疲れせずに話せ、教育学部の院生で、あたたかでやわらかい対応で、現場の教員にはない、新しい包括的な視点と行動力で、スクールソーシャルワーカーさんは母と関わってくれました。

学校のお便りを持ってきてくれ、学校から見放されていないという適度な安心感を得られ、弟の勉強を見てくれ、たわいもない話から、弟に自信をつけさせ、教員や子供福祉に関わりたいという学生たちと始めたというフリースクールに弟を連れ出してくれました。大学の教授さんも関わってくれているということで、母は弟の居場所ができたことで、冗談を言ったり、とても笑顔が増えました。

母は、弟が自分以外の人と徐々に関わっていく中で、自分の時間を取れるようになり、スクールソーシャルワーカーさんへの交通費とフリースクール代を稼ぐために、早朝の新聞配達を始めました。教育現場にも頼めない、福祉にも頼めない母が見つけた精一杯の愛情でした。薬を飲みながらの新聞配達はとても大変だったと思います。

私も、それまで誰にも相談できなかったけど、スクールソーシャルワーカーさんには話せて、誰よりも我が家の現状を知っている人がいるということだけでもほっとできました。また、この家には第三者が必要だけど、私がいるから大丈夫と、私を基点に家族の問題を解決されようとすると、辛くなりました。私は何もできない中学生なんだ。社会には、こんな困っている時に助けてくれる人がいるのに、利用しないだけなのだと思いました。私がこの家にいると母と口論になるし、先生方から弟のことを相談されるのも苦しくて、祖父母の家に住まわせてもらうことなりました。叔母家族も住むことになり、ご迷惑をかけたと思います。私が、今、普通の家族を築けているのは、健康的で、あたたかな祖父母や叔母家族の関わりがあったからだと思います。

母も、スクールソーシャルワーカーさんを通して、学校に自分では先生方に伝えにくい、我が家の状況が伝わっているだろう。その上で、学校が何も言ってこないということは、これが学校や地域福祉の限界なのだ。私(母)も限界がある、と折り合いをつけているようでした。

そのスクールソーシャルワーカーさんとは弟が定時制の高校に通うようになってからは、この事業が中学生までが対象ということで関わりは浅くなってしまいましたが、フリースクールに行くと会えるということが弟の安心になるようでした。フリースクールにはパソコンもあり、検定も受かりました。本来、弟は人と関わるのが好きで、頭が良くて、足も速くて、優しい人でした。彼の存在能力を引き出せたのは、スクールソーシャルワーカーさんがいたからでした。私達家族だけではできなかったと思います。

県立高校に通うための奨学金の手続きのために、父に所得を証明するものを取ってもらうように頼むと、そんな借金はできないと言われました。

両親は、親のお金で私大まで出してもらい、父は私立高校、母は教職まで取らせてもらったのに、私には、中卒で働けというのかと必死で説得しました。親は自分のことしか考えない、あてにならない存在だと思い知らされました。

このまま、この人たちの言いなりになったら、私の人生は、この人たちの世話だけで終わってしまう。勉強したら、この家を出られると、帯状疱疹になりながらも、必死で勉強しました。

母は病院で50台半ばで誤飲で亡くなりました。カウンセラーさんとの相談も、作業療法もお金がかかるからと、拒否し続けました。薬しか治療法がなく、どんどん呂律が回らなくなっていました。入院し続けてもいいのか、でも、家に戻ってしまうと、薬も飲まなくなるだろう。戻った家の環境を考えると、とても母の治療に協力的とは言えない。入院している方が母は心穏やかにいられるだろう。社会資源もない、お金もない、親戚も頼れない、私にも家族がある。母が入院してくれていたら、ひきこもりになっている弟を医療・福祉につなげられる。父だって、父の人生がある。様々な葛藤の中で、親戚、主治医の先生、行政の保健師さん、病院の医療ソーシャルワーカーさん、家庭裁判所調査官、裁判官と相談し、いつか、母が笑えるようになるまで、娘である私が、私にしかできない方法で、母を支えたかった。でも、できませんでした。ごめんなさい。お母さん。

病院から電話を貰った時はやっぱりなという思いと、正直、これで幼いわが子を私の夫に頼み、離婚されないように気を遣い、1日がかりのお見舞いに来て、「何しに来たの。早く帰りなさい。」なんて言われないで済むと思うと、不謹慎ですが、わが子に、私と同じ思いはさせたくない。私はやっと楽になれた。足かせのない、人並みの人生のスタートラインを目指せるようになると思える私もいました。

母には母の思いがある。その譲れないものが彼女を苦しめたのだろう。

お母さん、育ててくれてありがとう。

私は今、幸せです。

お母さんのように無理をしてしまわないように、カウンセリングを受けて、作業療法のようなものも受けるようにしています。

子ども達や夫には、私は「愛想がいい、笑っているお母さん」なんだって。

伝わっていたかはわかりませんが、私はあなたのことが大好きでした。

(2024年4月)

"ともさん"(60代 女性)の体験談をご紹介します。

 私は父、母、三歳下の弟の四人家族で関東地方の都市で育った。父も母も戦時中思春期を過ごした。私が小学校のころから、父と母は精神科のある病院にかかって処方された薬を飲んでいた。病名はわからなかったが、なかなか眠れないとか、眠りが浅いなどの悩みがあったようで、二人とも睡眠導入剤のお世話になり、母は不安神経症で精神安定剤を処方されていたと思う。

 中学一年生のころ、母が朝になっても布団から出てこられなくなった。うつ病かも、となんとなく思っていた。というのも、私が育った家は精神の病についての話題がごくあたりまえにされていて、意味はわからなくてもうつや誇大妄想、精神病院という言葉はよく耳にしていた。

 母は四歳のときに、お店を経営していたお金持ちの伯母さんの養女になった。女学校を卒業して洋裁学校に通っていたころ、その伯母さんが精神分裂症(現在の統合失調症)を発症して十六歳の母はヤングケアラーになってしまった。伯母さんは明治生まれで学校に行かれず、読み書きができなかったために二軒あった家の一軒を(たぶん)信頼していた人に奪われてしまったのだった。

 母は精神を病んだ育ての親を介護している感心な娘さん、ということで、そのころ母が住んでいた家の隣の家のおばあさんが、父を母に紹介して婚姻の運びとなった。父は海軍の将校で乗っていた戦艦が撃沈されて海原に浮いていたが、からくも救出され九死に一生を得たという体験を持つ。

 父はほとんど軍隊や従軍についての話をすることはなく、戦友会のようなものとの関わりも一切なかった。そのころの家にはありがちな暴力こそ封印していたけれど、何かというとすぐキレて大声で怒鳴りだすことがよくあり、今でいうパワハラ・モラハラ発言がひどかった。怒りのモードに入ると、目の色が変わり、まるで人が変わったようになってしまうので父のことが怖かった。

 父が「お前は母親の資格がない」というようなことを理屈っぽい言葉でまくしたてるので、私は母に同情して愚痴の聞き役になっていた。父と母は次男次女、お互い負けず嫌いな性格で共に生活していくうちに、売り言葉に買い言葉が次第にエスカレートしていったようだ。母は言い負かされた悔しさで鬱憤不満が溜まり、怒りの矛先は長女の私に向かった。

「うどの大木」「できそこない」「役立たず」「見かけ倒し」「宝の持ち腐れ」「むだ飯食い」と何かにつけていわれていた。ディスりのオンパレードだった。母は自分が負けず嫌いだから、私にそういって奮起させるつもりだったかもしれないのだが、私は母とは性格が180度ちがい、負けず嫌いとはほど遠く、そういわれるたびにどんどん元気がなくなり、いつも憂鬱な気分だった。その上「子どもらしさがなくてかわいくない。私はあんたなんか生みたくなかった」といわれてしまい、いつのまにか死にたい気持ちがときどき浮かび上がってくるようになっていた。

 思えば私が幼稚園のころから、家の中では父の「出ていけ!」という怒鳴り声が響いていた。そのころの父は苦虫を噛み潰したような顔をして、いつも何事かに対して怒っていて、何かあれば一触即発の雰囲気を漂わせていた。家の中では父と母の口喧嘩がかなり頻繁に起きていた。父は暴力をふるうことはなかったが、大声で怒鳴ることがしょっちゅうあった。

 何か気にさわることがあるたびに、父は母に「出ていけ!」と怒鳴り声を上げていた。父は私が何か素直でなかったり、いうことを聞かなかったりしたときだったろうがすぐにキレて「出ていけ」と怒鳴っていた。それより以前のころから父にも母にも、「出でいけ」と何回いわれたかわからない。なぜ年を追うごとに、だんだん死への誘惑にかられるようになっていったのか、今改めて考えてみれば小学校一年のころの出来事が目に浮かんでくる。

 どういう経過でそうなったのかはまったく覚えていないのだが、私の前には父ではなくカンカンになった母が「アンタみたいな親のありがたみがわからない子どもは孤児院に行け!」と怒鳴っている。それまでもどれだけ「出で行け」といわれたかは、あまりにいわれすぎてわからなくなってしまっていた。親からそんなに何度となくいわれるのだから、私はこの家を本当に出て行ったほうがいいのかもしれないと怒鳴られながら思っていた。頭の中で、親を戦災や震災で亡くしたり、何かの事情で育てる事ができなくなった子どもたちが暮らしているという孤児院の門の前に行って中の様子をそおっと見てみる。

 するとジャングルジムの上にいた男の子が私に気づいて私に「なんか用?」と話しかけてくる。私は(この子にはお父さんもお母さんもいないんだなぁ)と思ったら可哀想で泣き出してしまい、涙が止められない。その男の子は何もいわずただ泣いているばかりの私を見て(どうしてこの子泣いているのかな?)と不思議な表情をしている。私はその男の子のことを可哀想と思っていることをその子に知られたくなかった。同情という言葉はまだ知ってはいなかったが、孤児院で暮らしている男の子を可哀想と思うのは何か違う、というか違和感があった。

 母に「孤児院に行け!」と怒鳴られて孤児院へ行くという想像を頭の中でやってみたわけだが、孤児院の門の前で同情の涙が止められないようでは、いくら母にいわれたとしても本当には行くことはできない。そう思ったときの私の顔は、口を硬く結び歪んで見えたことだろう。二言目には「出ていけ!」と怒鳴る父と「アンタなんかだめに決まっている」という母のいる家を今はまだ出ていくことはできないと子ども心にもあった生きるための覚悟のようなものだった。

 そのときの私の顔は、母がよくいっていた子どもらしくなくてかわいくないふくれっ面になっていて、それがまた母の怒りに油を注ぎしばらく母の怒鳴り声が続く事態を引き寄せてしまったのだった。

 今思えばだが、小学校にも上がらない子どもに対して「出ていけ」というのは、親に頼るより生きていくすべがない子どもにとっては「生きるな」といわれるにも等しいことである。家から出る、ということは成長した暁には可能になることで、私の両親だけがいっていた訳ではないそのまた親から受け継がれてきた子どもにいうことをきかせる便利な、でもとても危険な言葉だった。

(2024年4月)

"ヒペリカムさん"(40代 女性)の体験談をご紹介します。


私の両親は統合失調症です。父は私が3才頃に発症し、母は診断がついたのは私が20代になってからですが、早く受診していたら少なくとも4才頃には診断がついていたと思います。

父は被害妄想と幻視があり、昼間に仕事先から突然帰ってきて「俺を道行く人が狙っている」と言ったり、家で目が合うと「バカにしやがって」と突然怒鳴り、物を投げてきました。急に顔つきが変わり、行動に移すため、父がいつもどんな反応を示すか予想が出来なかったので、いつも父を怒らせないようにと気を張っていました。病気であることは知らず、ただただ父は怖い存在で、家にいると緊張しました。また、父の病名を落ちていた薬の袋から統合失調症(知った時は精神分裂病)と知った時はまだ小学生だったので、言葉のインパクトに衝撃を受け、病気を悪化させないようにと更に気を払うようになりました。

一時期父と母との間で離婚話が持ち上がり、私は父と暮らしましたが、父といると緊張し、母に会いたくて、母の元へ行きました。結局まだ私が小さいので離婚しないことになりましたが、父の事で悩む母の姿に胸が痛み、母が笑顔になれるようにと習い事や勉強を頑張りました。私が頑張ると父や母は笑ってくれたので嬉しかったし、父の言動も落ち着いていたので、安心しました。父や母の情緒的ケアをしていくことが私自身の存在の意味と思い担っていたと振り返ります。

なお、母は同居を再開しましたが、次第に情緒不安定になっていきました。そのうち、いつも自分や家族の体調を気にしていて、痛みがあると「癌かもしれない」と色々な病院に行き、検査や薬をもらったり、健康食品をたくさん購入したりしていていました。私は学校を休んで一緒に病院へ行き、母の不安を聞いていました。どうしたら母の不安がなくなるのだろうと必死でした。なお、母は色んな診療科にかかりましたが、精神科は受診しませんでした。自分は父と違うと考えていたようでした。でも、今振り返ると母はすでに発症しており、心気妄想だったのではないかと思います。

また、父も母も、私の成長と共に管理が強くなっていき、携帯電話に着信やメールが来てから、5分経たないうちに何回も電話やメールが送られるようになりました。学校の時間やバイトの時間であり、出られないことを伝えても、通じません。また出ないことが続くと母が父に話すと言い、父が怖い私は怒られることがとても怖いし、また家の中が暗くなることが嫌だから、友達との予定があってもキャンセルしました。これで父も母も穏やかになるのだと我慢して耐えていました。キャンセルのたびに噓をついている自分が何度も嫌になりましたが、父や母のことは誰にも言うことができませんでした。近所に精神科病院がありましたが、学校の先生や近所の人は「あそこはおかしい人が行くところだから行ってはいけない」と話していたので、とても言う事はできず、苦しかったです。

私が就職をし、働き始めた頃、母の状態がどんどん悪化していき、一日中横になることが増えていきました。父が仕事を辞め、家にいるようになった事で、母のバランスがさらに崩れたのだと思います。仕事から帰ると自分の体の不調を繰り返し訴える母に精神科受診を勧め、父と同じ所に受診した結果、うつ病と診断されました。その後「死にたい」と言い、医療保護入院となり、統合失調症との診断がつきました。閉鎖病棟で会った母は、目がうつろで、私が入ってきても何も言わず、人が変わってしまったようで、強いショックを受けました。私は「もう限界かもしれない」と父と母の主治医に相談し、これまでの父と母の事を打ち明けました。すると主治医からは「あなたはあなたの人生を生きなさい」という言葉を頂きました。父や母は「娘が就職をし、自立していくことは親を見捨てる事だ」と主治医に話していたとのことでした。私は精神疾患がなぜ偏見の対象となるのかを知りたかったこと、自分自身が辛かった時に助けてくれたカウンセラーのように自分も人の役に立てる仕事に就きたいという思いから、精神保健福祉士として働いていたので、この主治医からの言葉を聞き、これは「危機介入」で「分離」が必要だということだと感じました。ここまでこじれてしまったのかと愕然としましたが、「分離」の目的は「親子再構築」なので、ここが潮時という事だと判断し、支援者に協力を頂きながら、家を出ました。もう父や母の言動に直接振り回されなくなったことは、とても大きいものでした。一人暮らしを始めた日の夜の星空はとてもきれいで、今もこの日の空の事は覚えています。

その一方で、家を出てから引っ越し先で、職場や状況を知らない友人たちとの日常会話で家族の話が出る時に、自分の家族の事を聞かれることがありました。その時に自分の家族の事を隠さなくてはいけない事はすごくつらかったです。私自身がいけない事をしているのではないか、親を見捨てているのではないか、という自責の念に包まれるからです。家から離れた後も繰り返し父や母のことを思い出しますし、形は変わっても、一緒に暮らしていたことによる生きづらさは続いており、一緒に居ても離れても精神疾患の親を持つこどもの立場による「しんどさ」があり続ける事は、悲しくてやりきれない気持ちでした。

そんな中、本屋に立ち寄った時にこどもぴあの「静かなる変革者たち」という本を見つけ、すぐに買って自宅で読みました。本の向こうに私と同じ想いをしている人がいた、分かり合える人がいるんだと、ものすごくうれしくて、救われて、涙が止まりませんでした。「独りじゃなかった」という事実を知り、本当に本当に嬉しかったです。その後、家族学習会やつどいへの参加を経て、こどもぴあの活動に参加するようになりました。

自分たちが経験したことを「わかる」と仲間と分かち合える喜びは、何にも代えがたいものです。「こどもぴあに出会えてよかった、生きていれば、あきらめなければ、必ず仲間に会えるんだ」と心から救われています。自分の経験や他の方の経験を聞くことで、徐々にこれまでの自分の経験を、客観視し、苦しい経験が昇華されていく事を実感します。

その後母は退院し、父と自宅で暮らしているとの事を、父や母の支援者から聞いていますが、今も私がどこに住んでいるのかは、父や母は知りません。今後いつ父や母に会えるのかはわかりません。まだまだ「親子再構築」の道の途中です。だけどけしてこの選択は後ろめたいことではなく、「あの時、親をネガティブに思わないように離れる決断をしたことで、お互いにとって傷つけあうことなく、同じ空の下で過ごすことができる距離で生きる事が出来ているのだ」と前向きに捉えています。父や母といつか会える未来を想いながら、仲間と共にこれからの人生を歩んでいきたいと思います。

(2024年4月)

“しんじさん”(50代 男性)の体験談をご紹介します。

私の母は、私が生まれた頃に統合失調症(当時の病名は精神分裂病)になり、私が5歳、14歳、34歳のときにそれぞれ1年ずつ入院しました(貧困家庭だったので入院代の工面が難しく、生活保護を受けたこともありました)。

母は人には一人ずつ国家から任命された見張り(母は「担当」と呼んでいました)が付いているという妄想を持ち、いつもその目に見えない担当と話していて不気味でした。そして、小学校高学年の頃から病状が悪化し、ある夜、住んでいた団地の窓の外にいるその担当と大きな声で喧嘩をしだしました。姉、兄と3人で必死に母を押さえましたが、母の突然の発作はこの世の終わりかと思えるくらいショッキングな出来事でした。

中学生の頃から母の心が完全に二つに分裂し、母の口を使って母と思われる人格ともう一人の人格が大きな声で喧嘩をするようになりましたが、これは見ていてとにかく怖くて気持ちが悪かったです。そして、これを外でもやるので、私は学校の友達が母に会わないようにいつも祈っていました。

大学生になった頃から、「近所に殺人事件があった」などの妄想を持つようになり、警察に電話をしたり、警察署に通報に行って保護されたりしていました。警察から連絡があり、母を引き取りに行ったとき、警察の人から「お母さんをほっておくなよ。迷惑なんだよ」と怒られ、悲しかったのを覚えています。

私が就職すると、母が職場に電話をしてくるようになり、電話に出た上司や同僚に妄想を語るようになりました。最初は乳離れできない息子を心配して母親が電話してきていると勘違いされたのか、飲み会の席で心ない上司から「ほら、また〇〇君のお母さんが電話してくるぞ」とからかわれましたが、母親の電話がもっと深刻なものであることに気づくと、誰もその話題には触れなくなりました。

このようにどんどん症状が悪化していく母を見て、私は絶望しました。自分はアウトカーストであり、人と同じ幸せを得る権利なんかないんだ、一生結婚なんかできないんだと思っていました。

ところで、両親は熱心な新興宗教の信者で、私は幼い頃から父に信仰を強制されていたので、反発しておりました。しかし、その父が私が33歳の時に自死をすると、母は急に狂信的になり、実家に電話をするたびに「信仰をしろ!お題目をあげろ!」と言うようになりました。私は宗教にうんざりしていたので、結局、母とはその後9年間関係が断絶することになりました。

三十代のとき、ある女性と婚約しましたが、一方的に破棄されました。また、四十代のときに職場でパワハラの上司に当たってしまい、うつ病になり通院しました。このとき、「自分には何か問題があるのではないのか?」と気づきました。

そこで、内観と呼ばれる親からお世話になったことや、迷惑をかけたことをひたすら思い出す心理療法を行いましたが、これによって母のことが許せるようなり、毎月母の好きなお寿司を買って実家に行き、和やかな時を過ごすことができました。その1年半後に母は亡くなりましたが、和解して見送りすることができて良かったです。そして、既に亡くなっていた父についても、内観を繰り返すことにより、その後許せるようになりました。

そして、五十代になり、1年半前からこどもぴあに参加するようになりました。生まれて初めて自分と同じ経験をした人たちと対面したときは感無量でした。「あなた達も本当にあんな大変な経験をしたのか?」と思うと、一人一人が愛おしくてなりませんでした。

それから、今まで人に言えなかった母の病気のことを同じ経験をした人たちに語り、また他の人たちの経験を聞くことにより、自分自身の経験を客観的、相対的に見ることができるようになりました。今では仲間とつどいやLINEで日常的に母のことを話しており、子供の頃からの孤立感、孤独感が解消されました。こどもぴあと出会えて本当に良かったです。

もう自分の人生の3分の2は終わっていますが、残りの3分の1を悔いがないように生きたいと思っています。

(2023年8月)

"プルメリアさん" (50代 女性)の体験談をご紹介します。

私の母は75才で、妄想型の統合失調症です。

母が発症したのは私が2~3才の頃で、数か月程入院したそうですが、退院後は未治療でした。

家事ができなくなるような症状はなく、(被害妄想がある為)人付き合いはできないという症状が主だったように思います。

今になって考えると、私との会話がちゃんと成立していないというのも立派な症状だったのかもしれませんが、物心ついた時からそういう母でしたので、それが病気の症状だとは気づきませんでした。

私は一人っ子で、私が低学年の頃に父が家を出ていき、その後離婚しました。

小学生の頃は、母の(妄想による)人の悪口を毎日のように聞かされました。

高学年になると友達と映画を見に行きたい。という私に対して「ダメ」の一点張りでした。私は納得できず「どうして?」と聞くと、ヒステリックになって「行く必要なんて無い!」と理不尽に怒鳴られ、たたかれました。

父の仕送りがあったので貧乏だと感じるような事はありませんでしたが、必要なものは一番安い物しか買ってもらえず、遊びに行きたいと言えば「ダメ!」。という母との生活は精神的にキツかったです。(ここだけ読むと本人が知らないだけで貧乏だったからじゃないか。と思うかもしれませんが、ちょっと違うと思います。)

高校に入ってアルバイトをしようと思いましたが、反対されましたし、進学は許されなかったので、高卒で働いていた為、成人式の頃には自分で自由になるお金を持っていましたが、成人式用の着物を自分でレンタルしようと思って母に話したら猛反対され、あきらめました。

大人になって母は病気ではないかと気づき、保健所に相談に行きましたが、「ここは頼れる場所ではない。」という事を学んだだけでした。

結婚して家を出ても、子育てをしながらずっと働きました。母を養う為です。

出産・育児の時に親はあてになりませんでしたが、育児雑誌や保育園のおかげでどうにか育てられました。

子育てもやっとひと段落した時、母が身体的病気になりました。病院に行こうと説得しても、「寝ていれば治る、病院なんて行く必要がない。」と言うので、病院に行く事を説得するのに3時間ほどかかりました。

(精神の)病気の為に現実逃避してしまい、「自分は病気ではない。」と、手術を拒否しますので、いつまで生きられるかはわかりませんが、今は老人ホームで穏やかな日々を送っています。やっと私の肩の荷がおりました。とても長いみちのりでした。

(2017年11月)

”芝生さん” (20代 女性)の体験談をご紹介します

私の母は「統合失調症」と「双極性障害」の診断を受けています。私が幼い頃に発症しました。小学校2年生の頃、母が叫びながら一晩中裸で暴れ、とても怖かった記憶が残っています。

診断を受けてからも母は、自分は病気じゃないと思っていたため、薬を飲まなくなって悪くなり、飲んで落ち着いての繰り返しでした。

子供の頃の私は母の病気を理解できず、周囲から家も汚く“ゴミ屋敷みたい”と言われたり、ご飯が作れなくなったり、近所の人を悪く言うのを延々と聞かされたり、友達と遊ばせてくれなかったり…「なんでうちのお母さんはこうなんだろう」と友達のお母さんと比べ、家が大嫌いになっていました。父も毎日お酒を飲んで酔っていたため頼りにならず、私は誰を何を頼りにしたら良いのか分からなかったです。当時は本当に家にも帰りたくなくて、誰も信用できないと思っていました。

親に甘えたり相談したりすることが出来なかった為か、頼ることが苦手で、精神的にも金銭的にもどう甘えて良いのか分からず、自分で生計をたてて生活し学校へ行きました。そのまま頼り方が分からないまま大人になり、困ったときもどうやって誰に相談すれば良いのか、未だに悩みます。

母の気持ちの波に私も一緒に揺られて、母が落ち込んでると、話を聞きながら私も落ち込んで泣いていました。

その後、精神疾患への興味から看護学校に入学し、そこで色々な制度があることや家族会の存在などを初めて知りました。

そして家族会に行くようになり、同じ仲間の存在を知り、その存在の心強さを知りました。母のことを相談でき、自分の気持ちを素直に言える場所となりました。気持ちを言ったり整理していくことで、今までがむしゃらにやってきた自分を、大変だった、頑張ったと少しずつ認めることが出来るようになり、少し気持ちが楽になったような気がします。

病気についても勉強したことで、今までは“お母さんなのに ”と思っていた気持ちを“ これは病気だからしょうがない”と、自分の中で消化することができるようになってきたと思います。

今では母の"病気"に感謝している部分もあります。母の"病気"のおかげで、今の私がいるからです。

(2017年6月)


関連書籍・記事・報道など

~下記リンク先の論文について~

こどもぴあのつどい等に参加したことのある方のご協力を得て実施した調査結果がまとまり、論文として公開(無料)されました。この論文は、精神疾患のある親を持つ人が小・中・高校時代にどのような体験をしたか、学校で相談はできたかということを把握したものです。これからの学校での支援のあり方を検討するにあたり、基礎資料として活用できると考えています。

(このホームページを作成しているサイトの機能により下記リンク先の詳細情報が表示されませんのでここで説明しています)

下記、月間みんなねっとでこどもぴあ特集が組まれました P6~P17
リンク先のページ右側からバックナンバーの購入もできますし
その下のPDFの完全版をダウンロードする事で無料で読めます

下記は小林さんが載った新聞記事です

こどもぴあ関連書籍、第二弾です↓↓↓


2018年9月25日(火) 22:00-23:55 TBSラジオ 荻上チキ・Session-22 

ヤングケアラー特集の中で「こどもぴあ」の名前の紹介があったようです。




(こどもぴあの活動ではありませんが)7月1日

NHK Eテレ バリバラ(19:00~19:30)「相次ぐ障害者監禁事件を考える」に蔭山先生が出演しました。

精神疾患のある人が家で暴れるのはつらくて言葉にできずどうしていいかわからず家族に助けて欲しいというサイン。

でも暴れられた家族はそのようには受け取っておらずストレスを抱え、周囲に隠そうとするのが日本社会の現実。

蔭山先生によると「家族会の調査によると半数以上が暴力を受けた経験があるが、そのほとんどが家族に向かっており、見ず知らずの人に向かったのはたった1%。一般集団よりも犯罪が少ないというデータがあります。」とのこと。

「監禁をしてしまった家族自身も病んで正常な判断ができなかったんだと思います。相談に行っても病院に連れて来たら診ますよ。と言われてしまう。連れて行けないから困っているんですが、そういうふうに簡単に言われてしまうので家族でなんとかしようとしてしまって思いついた方法が監禁という最悪の方法だったという事なのだろうと思います。」とのこと。

~その後訪問看護で落ち着いた家族が紹介されていました。~

訪問看護が早く全国に広がって欲しいものです。

「欧米ではあたりまえの支援です。」と蔭山先生がおっしゃっていました。


しんぶん赤旗さんに、下記の記事が載りました。

2018年5月13日

しんぶん赤旗さんに、下記の記事が載りました。

2018年4月25日



3月24日(土)のしんぶん赤旗さんにこどもぴあのことを掲載して頂きました。(下記)




下記は、共同通信 吉本さんから受けた取材が記事になったものへのリンクです。

専門誌や地方の新聞記事などにも転載されています。


私たちの体験談が本になりました(下記)。2017年12月1日発売。

amazonで購入できます。詳細は下記のリンク先をご覧ください。

こどもぴあ関連書籍、第一弾 ↓↓↓


2017年1月18日、19日、20日に朝日新聞の記事として「精神疾患の親がいて(上)(中)(下)」が掲載されました。

朝日新聞社等の許可を得て掲載していましたが、1年間の期限が過ぎ、更新していない為削除しました。

(当初は、途中まで読めるデジタル版もありましたが現在はありませんのでリンク先のアドレスも削除しました。)


こころの元気plus+ 2016年7月号

特集 私の親は病気です

 認定NPO法人 地域精神保健福祉機構 コンボ 発行


下記のコンボさんのホームページから購入できます。

送料込600円

https://www.comhbo.net/